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お正月に本を読みながらぼ~っと考えたこと

お正月に解剖学者の養老孟子さんと生物学者の池田晴彦さんの本を読みました。

お二人の物言いは、とてもはっきりしている一方で、自分が分からないことに関してはとても謙虚に言葉にされているところこに共感します。これだけの方の叡智を持ってもこれから先のことはわからない・・・。そんな時代を生きぬいていかなければならない私達はただ流されて生きていくのではなく、自分の心に引っかかるものを感じ「なんで?」「どうして?」という疑問を持ち続けて考えていくことが大切なのかもしれません。以下養老孟子さんの言葉をご紹介します。


ボクは78歳、小学生2年の時に戦争が終わった。その頃のみんなは生きるのに必死だったから「子供はなぜ勉強しないといけないの?」と聞いたら『そんなくだらないことを聞くんじゃない』と言われておしまいだっただろう。でも「そんなくだらないことを聞くんじゃない」ということは「考えるな」ということではない。お父さん、お母さんに聞いても「そういうものだよ」というだけでちゃんとした答えではないかもしれない。もし、それに納得したら考えることを止めることになる。納得せずに疑問を持ち続けることが大切。

勉強とは山に登ること。高いところに登って視野を広げること。見える範囲が広がることは人間として成長すること。

「なぜ勉強をしなくちゃいけないの」という疑問は「勉強をしたくない」ということかもしれない。そもそも学校という場所は子供に向いていない。子供はじっとしているなんてできない。それなのに、1日6時間も姿勢よく座っていることはできない。でも行かなくちゃならないから、学校はがまんの場所、我慢の練習だと思うほかない。社会に出たらいろんなガマンをしなきゃならないからね。

でもガマンと勉強は違う。

ぼくは子供のころムシが大好きだった。「くだらないことばかりしているんじゃない」とよく叱られた。でもムシのことを徹底的に調べようと思うと、いろんな知識が必要になる。標本を作るときの化学薬品や英語など。好きなことを徹底的にやろうとするとなんで数学をやらなきゃいけないのか、社会という教科がどういうときに役立つのかがわかってくる。学校での勉強が役立つときがやってくる。

答えよりも考えることが大切。いま、世の中がどんどん便利になっている。ボタンを押すだけで機械が何でもやってくれる。何かを調べるんだったらすぐに誰かが教えてくれる。

これが進むと人間がいなくてもいい世の中になってしまう。それってよいことだろうか?

人間が必要ない社会が本当に良い世の中なのか。ちょっと難しい問題だよね。

きっと答えなんかない。学校の勉強ではどんな問題にも答えがあるはずって思うけれど、世の中いつも答えがあるとは限らない。むしろ簡単に出てくる答えほど怪しいと思わなきゃいけない。テレビで偉そうなことを言っているコメンテーターの意見も疑って聞くべきだ。自分で考えることを大切にしてほしい。そもそも「なぜ勉強をしなくちゃいけないのか」という疑問に「答え」はない。でもその疑問を持ち続けて、考えることが大切なことなんだよ。





池田晴彦さんは「驚くべき乳幼児の心の世界」の著者ヴァスデヴィ・レディさんが来日された時の講演会に参加されていてその感想も述べられています。(一昨年の赤ちゃん学会で講演会の宣伝をしてあり、「行けたらいいな~」と漠然と思いつつレディさんの本を購入。こんな形でレディさんと出会えるなんてちょっとラッキーです)以下池田さんの言葉をご紹介します。




レディは乳幼児の心の研究者で、乳児と対面でコミニュケーションすること(二人称的アプローチ)により、1歳未満の乳児が、恥じらい、見せびらかし、おどけ、からかい、さらには他者の行為や応答への期待や予測を見せることを発見した女性である。

 従来いわゆる「心の理論」すなわち他者の心の状態(目的、意図、志向、疑念など)を推測する心の機能は、ヒトでは4歳くらいになって出現すると考えられていたが、レディは1歳未満でこの機能が獲得されていることを示したのだ。そのためには他者との二人称的なかかわりが極めて重要らしい。このかかわりが何らかの理由で阻害されると、乳児の心は上手に発達せず、自閉症に代表されるような状態が現れるという。

 一般的に乳幼児は1歳くらいにならないと意味のある言葉を喋らないので、心の発達は言語の獲得に先行するのである。多くの人は言葉によってコミニュケーションするので、言葉がないと正確なコミニュケーションはおろか、相手が何を考えているかも分からないと思いがちだ。しかし、事実は言葉がない方が深いコミニュケーションができるのではないかと、私は思う。(略)

赤ちゃんとお母さんや、ペットと飼い主のコミニュケーションが、きわめて親密なのは、言葉を交わさないからだと思う。





養老孟子さんはこうも言われています。



意味のあるものだけに取り囲まれてしまうと、いつの間にか、意味のない存在が許せなくなってくる。その極端な例が神奈川県の相模原市で生じた十九人殺害事件であろう。障害があって動けない人たちの生存に、どういう意味があるのか、そう犯人は問うた。

 その裏には、すべてのものには意味がなければならない、という暗黙の了解がある。さらにその意味が「自分にはわかるはずだ」という、これも暗黙の了解がある。前段の「すべてのものには意味がなければならない」までは信仰として許される。しかし第二段の暗黙の了解が問題である。「私にはそういうものの存在意義がわかりません」。そう思うのが当然なのに、自分がわからないことを、「意味がない」と勝手に決めてしまう。その結論に問題がある。なぜそうなるのかというと、すべてのものに意味があるという、都会と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。意味のあるものしか経験したことがない。そういってもいい。

山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない。





「学ぶとは何か?」「言葉とは何か?」「意味のあるものとは何か?」考えさせられます。

私は学校の成績が一番だとは思っていませんが、人が生きるための知識や考える力は重要だと思っています。そして「遊び」や「学び」という言葉に対して、人それぞれの考えが違うことにも気付きます。「遊ぶこと」と「勉強」が対立するように解釈している人、逆に「遊びは学び」と同等に解釈している人・・・どちらの解釈にしても一見「そうだよね」と表面的な言葉だけで合意をしているようにみえても、言葉の限界や溝を大きく感じることがあります。

言葉を通じで同調することも日本的な思いやりかもしれませんが、「自分はこう思う」とか「何でだろう?」という思考は育ちませんよね。逆に違うのが当たり前で相違点を見つけた方が、より言葉に敏感になり、よく考えるようになり、本当の意味でのコミニュケーションになるのではないかと思います。

それから私が一番危機感を感じていることが、養老孟子さんが言われるように「意味のあること」に大人が執着をしていないかということ。私も常々気を付けなければいけないことなんですが、「子どもの行動や遊びには大事な意味があります」と言いつつも、まだまだ分からないことだらけです(わからなくて当たり前かも💦)。大人が理解できる行動であれば安心して見守れます。でも、子どもはそうそう思い通りにはいきません…「駄々をこねたり」「いたずらをしたり」「言うことを聞かなかったり」「奇声を発したり」そんな子どもの行動を大人は「意味のないこと」ととして受け取り、すぐさま意味のある行動に修正しようと躍起になっていないでしうょうか?私は心に余裕のないとき時々そうした気持ちと葛藤することがあります。
「意味のあること」を全て否定するわけではありませんが、以前からもありましたが、近年加速するように、乳幼児の育ちにまで意味のあることを求めたり、意味のあることをやらせたり…子育てにゆとりや余裕というものがなくなりつつある世の中の雰囲気の息苦しさを感じます。

迷いもブレもない人はとても魅力的で頼りがいがあって安心できるようにみえますが、実際のところそんな神様のような人はいるのだろうか?とも思います。
現実には、迷いながら寄り道をしながら意味のないことをたくさんしながら、自分というものを確立していくしかないのかなぁと感じる今日この頃です。


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カテゴリ:番外編
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Comments
2018/01/11
from レオ
#- URL
tamakiさんへ

こちらこそ、今年もよろしくお願いします!!

ブログを書きながら自分でも矛盾したこと書いているなぁ~と思ってることを共感してもらって嬉しいです。
私もtamakiさんくらい上手に言葉で表現できればいいのですが、何せ苦手な分野なので毎回苦戦しています💦
とにかく、子ども達の素敵な部分をお伝えできればと思って頑張って書いているんです。

ゆっくりでも下手でもいいから大切なことを見失わないよに、今できることをお互いやっていきましょう!





2018/01/10
from tamaki
#- URL
レオさんあけましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいします。

今回の記事、とても共感して読みました。

ことばを使わないと、話し合えないけど、ことばの制限にがんじがらめになることもある。本当にそうですよね。

自分にとって意味がなければ、排除してもよいとおもう、大切に扱わなくて良いと決めつけるというのは、危険なことですよね。でも、実際に身の回りでそうした態度をとる人がたくさんいて、その結果とうとうあのような犯罪(相模原の事件)が出たともいえるとおもいます。

社会のたくさんの大人たちが、自分には意味がないとしか思えないものに対して、謙虚な思いを持って、自分には理解できないけどなんだかその人には(こどもには、虫には)すごく大事なことなのかもしれない、と思うことができると、少し変わっていくのかもしれないと思います。

前にも記事にしたことがあるのですが、現代では「わからない」ということをそのまま持つことができにくいですね。時間的な余裕も、心の余裕もない。日本はこんなに経済的には発展したけれど、そうした部分では非常に貧しい現状があるとおもいます。

わからないことをわからないまま持ち続けたり、どうしてだろうと飴を舐めるように大切にその疑問と向き合って考え続けたり、そうしたことの豊かさがみんなで共有できるようになるといいのですが。

微力ながら少しずつそうしたことを発信し続けられたらいいと思います。レオさんの活動や記事にいつも勇気付けられています。
2018/01/09
from レオ
#- URL
ジジさんへ

言葉って不思議だなぁと思います。私自身言葉によってこれまでの人生勇気づけられてきたのも事実です。反面、現実世界では実態の伴わない言葉が氾濫していて心がクタクタになってしまうときがあります。
今までもジジさんの言葉に引っ張られるようにして頑張ってこれたし、さまざまな先人の言葉に勇気をもらい感動することもできました。言葉の偉大さは私自身痛感しています。逆に、言葉に振り回されたり傷ついたりすることもあり、言葉は用心しないと諸刃の剣のようなものだなぁと感じています。

言葉を否定してしまってはブログで綴る言葉も意味のないものになってしまいますもんね…私は言葉が独り歩きしないよう、心や行動が言葉と矛盾しないことが大切だと思っています。そうでないと自分の中で矛盾が生まれ言葉に魂がなくなり人の心に響かないような気がするからです。
私も心のこもった真実の言葉を綴れるように頑張っていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。

レオ
2018/01/09
from
#- URL
「意識は、太陽が水の小さな一滴にも反映されるように、言葉の中で自己を表現する、言葉は小世界が大世界に、生きた細胞が生体に、原子が宇宙に関係するのと同じ仕方で、意識に関係する。言葉は意識の小世界である。意味づけられた言葉は、人間の意識の小宇宙である」

これは、ヴィゴッツキーの「思考と言語」の最後に書かれている締めくくりの文章です。死を意識したときに書かれたそうです。

養老孟子が言うように「世界に本来の意味はない」のかも知れません。しかし、人間の歴史は「意味のないものに、意味づけしてきた歴史」と言えるのかも知れません。ジジはそう思っています。

そのことによって、私たちは自分の経験だけでは理解できないことに挑戦できるし、ささやかでも喜びを感じることができます。

100年も200年も過去に生きた人々から、言葉を通して、その経験や考えを伺うことができます。養老孟子もそうして脳科学者になったのでしょう。

一人ではなれませんから・・・。

規模は違っても、ジジも子どものあそびを言語化したいと思っています。

レディの「二人称的アプローチ」も、言語化されることで、それまでの発達心理学では見過ごされてきた領域にスポットがあてられました。

そのことで、どれだけ母親を勇気づけられるようになったでしょう。

「母と子の世界は、客観的な実験の物差しだけでは測れない・・・」今になって考えれば、レディが学生時代に学んだ心理学は間違っていたということです。レディは赤ちゃんを前にして「なんで?どうして?」と悩んだようですね。

「なんでもかんでもことばにすればよい」ということでは無いのかもしれません。言葉にしないことの大切さも、現実にはあると思います。

それでも、言葉にすることで「コミュニケーションする」ことはできます。

正月からなんだか議論になりましたね。

今年もよろしく、お願いします。















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