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TOP子どものあそび心理研究所ジジさんからのコメントより〜

ジジさんからのコメントより〜

「積木から広がり、つながる世界」の記事でジジさんから
コメントを頂きました。
丁寧に解説をしてもらっているのでぜひお読み下さい。

子どもたちは、自分の体験や夢をおもちゃを使って生き生きと表現し、それらをおもちゃをつなげることでコミニュケーションしています。 ウィニコットの言葉が浮かんできます。 「個人はあそぶことにおいて創造的になり、創造的である場合にのみ、自己を発見する」 「あそぶことにおいてのみ、コミニュケーション可能である」 子どものあそびをこのように捕えることができて、うれしいです。「創造的である場合にのみ、自己を発見する」この文脈での「自己とは?」ウィニコットの言葉で「本当の自己」を指しているのでしょうね。 おおよそ0~9歳までの子ども期の仕事は「本当の自己」を構築していく、もしくは発見することかも知れません。 対社会的な勉強は、それからでも遅くないように思います。 「自己」という言葉は解釈がむつかしいところがありますから、自己=アイデンティテー、自己=私らしさ、として捕えてみます。 アイデンティテーという言葉の意味は、何時でも、何処でも、環境の変化が有っても、一貫して維持されるこころのしなやかさのようなものだと言われています。 例えばジジは、子どものころから根が臆病ですから、お化け屋敷に入ると「このまま元に戻れなくなるのではないか?」と妄想して、日常のアイデンティテーがぐらぐらしてしまいます。出口からでられてやっと正気になれたようでホッとしますもんね。 日常には、お化け屋敷のような環境はそれほどないのかも知れませんが、やくざに絡まれたり、いじめを受けたり、シカトされたりすると、アイデンティテーはなかなか形成されません。現実を見る力がなくなって、さまざまに妄想してしまいます。そういった意味では、子どもの周辺に「見えないお化け屋敷」は意外とあるのかも知れません。 さて、自己=私らしさから見て見ますね。私らしさの基盤は身体に付随していると考えられます。顔かたちや指紋に至るまで一人ひとり違いますから、もし「本当の私らしさ」があるとしたら、世界に一つしかないのかも知れません。 赤ちゃんがこの世に生まれてきて「しなければならない仕事」があるとしたら、私の身体から生み出された「私のこころ」を発見することかも知れませんね。 私らしさとは、私が作った物語でもありますから、赤ちゃんから初めても、一通りの筋書きができるまでに10年くらいかかるのではないかと思います。 さて、ウィニコットの「・・・創造的である場合にのみ自己を発見する」という言葉に戻ります。 「創造的」という言葉の対比として「妄想的」ということば使ってみると、「妄想的である場合は自己を発見できない」となります。 ウィニコットの言葉に「偽りの自己」というのがありましたね。妄想によって紡がれたもの、これが偽りの自己かも知れませんね。 妄想とは感覚によって知覚されたものではなく、感覚以外に何らかの感情が伴って「知覚されているように感じられるもの」かも知れません。 被害妄想という言葉がありますが、これは「必要以上に心配してしまうこと」とという意味で使われます。 さて、今回のブログでは3人の年長児が、積み木を使って体験したことを再現しています。一人でしているのではなく3人でしているところが面色いですね。おそらく、言葉だけではなく互いの気持ちでもコミュニケーションしているのだと思います。でないと調和したものはできないでしょうし、持続した時間を共有することもできないでしょうから・・・。 このあそびの世界には、互いの能力の比較や、将来に対しての義務もありません。そして、社会的な善悪の規範や、立場の上下もありません。面白そうだからあそんでいるだけです。仮にそういったものが入ってきたとしてもやめれば良いだけです。そこにはあそびを支えている自由があります。 こういった世界には「妄想が入り込む余地」はないのかも知れませんね。 「妄想」という言葉に同期するように「空想」という言葉があります。「ボクは鳥になって空を飛んでみたい」というのは空想ですね。子どものあそびの世界には空想があります。空想は想像の母と言ってもいいかもしれませんし、想像は創造への道という言い方もできます。 もう一つ「空想は逃避への窓口」という言い方もできます。 これを「良い空想」と「悪い空想」と分けてみると、良い空想には肯定的な感情が流れているのに対して、悪い空想には否定的な感情が潜んでいるのかも知れませんね。 今年の初めのブログに「感情について」書かれていました。感情教育という言葉は日常に聞くことは少ないのですが、もっとも大切なことかも知れません。 フロイトが全集の後付で(何巻か忘れましたが) 「自分は一人の町医者に過ぎないのだが、自分の業績を教育に生かしてもらえるなら、こんなに嬉しいことはない」と書いていました。 この精神分析学を教育に取り入れたのが、サマーヒル学校のアレキサンドル・ニールです。このことは前に話したと思います。 昨年、遠藤利彦先生に来ていただいて、ボールビーのアタッチメント理論について、直接にお話ししていただいたことは、荒尾リボンクラブにとっても大きな転換点になるかもしれませんね。 1938年ころだと言われていますが、ウィニコットが「一人の赤ん坊はいない」と気づいたと書かれています。 1950年ころにボールビーは「それまでは、親が子どもを迫害している」という前提がなかったと言っています。 そして1970年ころだと思いますが、R.D.レインが「自己と他者」の中で「一人の人間はいない」と言っています。 ここでは、アイデンティテーは一人で築かれるものではなく、他者によって補完されると書かれています。 ここには「女性は、子どもがいなくては母親になれない、ジブンに母親のアイデンティテーを与えるためには、子どもを必要とする・・・・・・。乳房を求める赤ん坊の要求と、赤ん坊を求める乳房の要求とが共存している。赤ん坊は母親から受け取るし、母親は赤ん坊から受け取る。幸せな乳房とは、与えることができるとともに、受け取ることができる乳房である」と書かれています。 リボンクラブもそんな風になれるといいですね。

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カテゴリ:子どものあそび心理研究所
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